NEWS NO.57(2014年度)
ようこそ先輩!実践酪農学で西川求氏が講義
本学農食環境学群循環農学類の「実践酪農学」では、農業の分野でさまざまな立場で活躍している外部講師を招き、講義を行っています。7月25日(金) は、1960年に酪農学園短期大学酪農学科を卒業、1964年に酪農学園大学酪農学科を卒業し、瀬棚町(現在はせたな町)に新規就農して酪農を営んだ西川求氏が、「酪農を考える」と題して講義を行いました。
はじめに干場信司学長から、「西川さんは、建学原論そのものを人生を通して実践して来た方です。当時は今よりもずっと難しかった新規就農を、なぜ選び、どのようにやってきたのかを聞いて欲しいと思います」と紹介がありました。
「私は18才の時、酪農に恋をしました。高校の修学旅行で北海道を訪れ、開拓農家に1週間、住み込みで体験実習をさせてもらいました。そこで出会った開拓農家の生き方に心を奪われ、自分の人生を賭けてやってみるのに値するのではないかと感じたのです。
今でこそ新規就農は珍しくありませんが、その頃は金もない、つてもない、ないないづくしで、新規就農は夢のような話でした。酪農学園短期大学を卒業し、先生に紹介してもらった自治体をあちこち回りましたが、就農を受け入れてくれるところはありませんでした。その後、酪農学園大学に入学し、卒業後は機農高校に教員として勤めましたが、酪農をやりたいという気持ちをずっと持ち続けていました。そして28才の時、瀬棚町で夢を実現できるチャンスを得ました。10年の片思いがようやく実ったのです。
瀬棚町は当時は非常に貧しい地域で、そこの開拓地に入り、5年で自立するという計画を立てました。乳牛を5頭飼育できれば、安定した経営ができるという時代です。35ヘクタールの土地を135万円で購入し、馬、農具、牛などと合わせて350万円の借金をしました。当時の年収はおよそ50万円でしたから、現在の価値なら5,000万円くらいでしょうか。
入植当時は、牛乳を輸送缶に入れて馬そりに積んで、1才になる子どもを背負いながら、片道1時間半をかけて運びました。今なら車で8分で行けるところです。輸送缶は28リットル入りを5本、合計140リットルほど、夏でも多くて10本で280リットルくらい、それで十分にやっていけました。
物事は計画どおりにはいきません。牛は生き物ですから、病気や死がつきものです。初年度に一番良い牛が死んでしまい、さらに妻が入院、手術をしました。それでもなんとかやれたのは、酪農の仲間の支えがあったからでした。大学に来られない農業青年たちのために酪農学園短期大学が開いた『三愛塾』を瀬棚町に継承し、それは今も続いています。
夢を見て、恋をして、酪農をやり、三愛塾でこれからの農業について語り合い、後継者たちを育てて来られたことを、誇りに思っています。私たちは決して大規模化はせずに、小規模経営を貫きました。誰かが離農したら、そこを買い取って規模を拡大するのではなく、後継者を探します。そうすれば酪農家の数は減りません。数が減ると過疎化が進み、村という組織が壊れかねないからです。300頭規模の農家が1戸あって隣人ははるかかなた、というのではなく、30頭の農家が10戸ある農村であって欲しいと私は思います。
今は、酪農の仕事は後継に託し、フィリピンでボランティア活動をしています。戦闘状態にあるミンダナオ島を訪れ、親を亡くした126人の子どもたちが暮らす施設で交流したり、高校に行けない子どもたちを援助する活動などを行っています。
酪農学園大学に入ってきたみなさんは、どんな夢を持っていますか?夢を持ち、夢を追いかけて、どんどん前に進んで行っていただきたいと思います」。